LOGIN弥生は瑛介とともにその場を後にした。二人が去ったあと、友作はその場に立ち尽くしていた。やがて先ほどの案内係の男が近づき、屋内で起きた出来事を一部始終報告した。友作は黙って聞いていた。すべてを聞き終えても、表情ひとつ変えない。その無表情に気圧されたのか、男はためらいながら尋ねた。「......この件、どうなさいますか?」「何?」その言葉を言い終える前に、友作の鋭い声が彼の言葉を断ち切った。突然放たれた圧に、男は一瞬で黙り込み、背筋を正した。「くだらない噂を立てるな。お前は口にすべきでない情報くらい判断できるだろう」叱責された男は、内心おもしろくない気持ちを抱きながらも、それを顔にも態度にも出せず、ただ唇を噛んでうつむいた。周囲の確認を終えた友作は、静かに踵を返し、階段を上った。向かった先は、弘次が幽閉されている部屋だった。扉の前まで来たとき、カーテンの閉じられた窓辺に、誰かが静かに佇んでいるのが見えた。カーテンの隙間がわずかに開いており、弘次はそこから外を覗いていた。彼女が来た。だが、会おうとはしない。それでも、目だけは離せず、遠くからそっと見つめている。その姿に、友作の胸の奥が揺れた。複雑な感情が入り混じり、言葉が出ない。どれほどの時間が過ぎただろう。友作が立ち尽くすあいだ、弘次もまた同じように動かず、まるで時間が止まったかのようだった。やがて友作はゆっくりと歩み寄った。しかし弘次はそれに気づかない。「本当は会いたいなら、どうして『会わない』などとおっしゃったのですか?」その声が部屋に響いた瞬間、弘次の瞳が細められた。ゆっくりと振り返り、鋭い視線を友作に向けた。「誰が入っていいと言った?」友作は落ち着いた口調で答えた。「おじい様からのご指示です。黒田様のそばには、二十四時間離れず付き添うようにと。お二人が帰られたので、当然ここへ来ました」弘次は鼻で笑った。「二十四時間も付き添う?ふん......今さら忠義者ぶるとはな、友作」その言葉に冷たく刃のような響きがこもっていた。彼が何を指しているのか、友作にはすぐにわかった。弥生を逃がした件だ。友作は唇を引き結び、静かに言った。「長年、黒田様の傍で働いてきました。黒田様が法を犯さ
弥生たちはかなり長いあいだ待たされた。ようやく友作が姿を現したとき、弥生はすぐに立ち上がった。「友作」彼女のその声には、信頼と期待がにじんでいた。友作もそれを感じ取ったのか、穏やかな声で応じた。「霧島さん」「どうでしたか?」弥生のまっすぐな眼差しを受けて、友作は一瞬言葉に詰まった。結果を伝えるのがつらかった。だが、引き延ばしたところで変わるものでもない。彼は静かに首を振り、何も言わなかった。それだけで十分だった。弥生の唇がわずかに震えた。友作はため息をつき、言葉を選びながら口を開いた。「霧島さん......黒田様はまだ心の整理がついていないのだと思います。だから今はお会いするお気持ちになれないのでしょう。次の機会を待ちましょう。きっと、いつかは分かってくださる日が来ます」「わたし......」弥生が言いかけたそのとき、席に座っていた瑛介が静かに立ち上がった。そして彼女の肩を包み込むように腕を回した。「彼がまだ考えを整理できていないのなら、今日は帰ろう」その温もりに触れた瞬間、弥生の喉奥にあった言葉は消え、ただ小さくうなずいた。友作は、その肩を抱く瑛介の手を見つめながら、胸の奥でまたひとつため息をついた。そして道を空けるように身を引き、静かに言った。「行きましょう。いつかまた、機会はあります」「待って」弥生は数歩進んだところで立ち止まり、瑛介を呼び止めると、再び友作のもとへ戻った。「友作」「霧島さん?」友作は、彼女がまだ諦めきれずに食い下がるのかと思った。だが、弥生はまっすぐ彼を見つめて言った。「ありがとう」その言葉に友作は一瞬きょとんとした。てっきり、今の件での礼かと思ったが、弥生はさらに続けた。「あのとき、もしあなたが助けてくれなかったら。私はもうこの世にいなかったと思う」あのときのことを思い出すと、友作の胸にも未だ冷たい恐怖が残っていた。もしあのとき、子どもの存在を思い出させることができなかったなら......弥生は命を落とし、弘次は取り返しのつかない後悔の中で、さらなる過ちを犯していたかもしれない。そう考えると、こめかみのあたりがずきりと痛んだ。「霧島さん、そんなに感謝されるほどのことではありません。私は黒田様のた
だが、今やその道は完全に閉ざされてしまった。弘次はもう、そこに希望を見いだすことができない。だからこそ、事態は今のような形へと転がってしまったのだ。確かに、弘次は悪い。いや、悪いどころではない大きな過ちを犯した。だが、友作はかつて弘次に恩を受けた身でもある。ゆえに、彼の過ちを責めるよりもどうにか改心させたいと考える方に傾くのは当然で、外部の人間つまり瑛介の側に立つことはない。瑛介もまた、その微妙な気配を感じ取っていた。差し出していた手を引っ込め、それ以上何も言わなかった。弥生も二人の空気の変化を察し、居心地の悪さを覚えた。しかし、友作はその沈黙を長く続けさせなかった。十秒ほど経ったころ、彼は自ら口を開いた。「今日は黒田様にお会いに?」弥生は小さくうなずいた。「ええ」友作の瞳に、わずかな困惑と諦めが滲んだ。「もし黒田様のご様子をお知りになりたいだけでしたら、私から少しお伝えできることもあるかもしれません。ですが......お会いするのは、恐らく難しいかと」やはり。来る前に聞かされていたのと同じ答えだった。彼は弥生に会おうとしない。覚悟していたとはいえ、実際に拒まれると胸の奥が沈んでいく。弥生の顔に一瞬浮かんだ落胆の色を見て、友作は胸が痛んだ。「霧島さん......少しお時間をいただけますか。もう一度、中で伺ってみます」「聞いてもらえるの?」「ええ。もう少しだけ待っていてください。あっ、隣の応接室でお待ちください。終わったらすぐに参ります」友作はそう言って中へ消えた。さきほどの先導役の男が再び現れ、二人を隣の茶室へ案内した。ほどなくして、テーブルの上には茶と菓子が並べられた。弥生は食事をしてから来たばかりだった。普段から食欲はあまりないうえ、今は胸がいっぱいでとても食べられそうにない。それでも場の雰囲気を壊さないよう、彼女は茶碗を手に取り、形だけでも口をつけようとした。しかし、唇に触れる前にその手を瑛介が掴んだ。弥生は驚いて顔を上げた。瑛介の視線は、彼女の持つ茶碗に注がれていた。固く結ばれた唇が、何を意味するかを語っている。そうか。弥生はすぐに悟った。以前、毒を盛られたあの一件があるからこそ、彼はここで出されたものを口に
弥生の何気ない一言に、瑛介の表情がわずかに変わった。かつて奈々が二人の間に割って入り、しかも弥生の救命の功績までも横取りしたことを思い出したのだ。あの出来事が原因ですべてが狂ってしまった。もちろん、それは自分が早く見抜けなかったせいでもある。過去をいくら悔いても戻ることはない。瑛介はもうそれ以上考えず、弥生の手をぎゅっと握りしめた。「どんなことがあっても、もう他の異性を僕たちの間に入れたりしない。行こう、中へ案内する」あの頃、別荘はどこか冷たく陰気に見えていた。しかし、弘次の祖父が弘次を監視しているためか、今の別荘の周囲には人がひしめき、至る所に警備の目があった。そのせいで、奇妙なことに不気味さよりも賑やかさを感じさせる雰囲気になっていた。瑛介が歩み寄ると、先頭に立っていた男がすぐに駆け寄ってきた。「宮崎様」瑛介は軽くうなずいた。「こちらへどうされたんですか?」そう言いながら、その男は弥生の姿に気づき、瞬時に何かを察したように口を開いた。「少々お待ちください」そう言って、彼は慌ただしく中へ駆け込んでいった。ほどなくして、弥生の視界に見覚えのある姿が現れた。それまで平静を保っていた彼女の心が、一瞬で大きく揺れ動いた。「友作!」まさかこんなに早く再会するとは思ってもみなかった。次に会うのは、もっとずっと先のことだと信じていたのに。友作もまた、弥生を見て一瞬驚いた表情を見せ、すぐに足早に近づいてきた。「霧島さん」唇の端に柔らかな笑みを浮かべ、まず弥生に挨拶し、それから瑛介の方へ視線を向ける。「宮崎様、ようこそ」妻を助けてくれた恩人の前で、瑛介は丁寧に頭を下げ、さらに自ら手を差し出した。友作は少し驚いたように目を瞬かせ、二秒ほど間をおいてから、その手を握り返した。「あの頃は、妻を助けてくださってありがとう」友作は穏やかに笑い、熱を帯びた眼差しで弥生を一瞥した。なるほど。冷徹と名高い瑛介が自ら握手を求めた理由が、ようやく分かった。「とんでもないです。私はただ彼がこれ以上過ちを重ねないように願っていただけです」友作の弥生に対する態度は相変わらず温かかったが、瑛介に対してはどこか淡々としていた。弥生が何度も外出するときには、常に友作が同行していた。二人はほと
「ないよ」瑛介はきっぱりと言った。「あなたを信じていないなんてことはない」弥生はすぐに言い返した。「嘘。もし本当に信じてたなら、そんなに早く次の言葉を続けたりしない。明らかに、私の答えを聞きたくなかっただけでしょ」その一言で、瑛介の心の内をすべて見透かされたようだった。彼は薄い唇を引き結び、しばらく沈黙した。もう言い訳する言葉も見つからない。そんな彼を見て、弥生は小さくため息をついた。「......まあいいわ。どうせ聞く気もなさそうだし。中に入ろ」そう言って手を放し、歩き出した。だが二歩も進まないうちに、腕をぐっと引かれた。「答えを教えてくれるんじゃなかったのか?」瑛介が低く聞いた。弥生は顔をそむけたまま答える。「だって、知りたくないんでしょ?」「誰がそんなこと言った?」彼の手の力が少し強まる。痛くはないが、逃れられないほどの強さ。「言えよ。言わないなら、中には入れない」「......あなたって、ほんと子どもみたい」弥生は唇を噛みしめ、少し俯いたあと静かに言った。「この前、もう気持ちは伝えたでしょ。その答え、もう分かってるはず」瑛介は穏やかに笑みを浮かべる。「分かってるつもりなんだけどな。でも、どうもはっきりしない。たぶん僕の中に安心が足りないんだ。もう一度、あなたの口から確かめたい」「安心が......足りない?」弥生は目を丸くした。「あなたが?嘘でしょ」「うん」「でも普通安心感がないのって、女の方じゃない?」「男だってそうなるさ。強がってるだけで、脆いところもある」彼は少し笑って続けた。「あの時、あなたをずっと閉じ込めてた。今こうしてやっとまた会えたんだ。安心できない方が自然だろ?」弥生は目を瞬かせたあと、少し肩をすくめて笑った。「......そうね、確かにそうかも」そしてまっすぐに彼を見つめた。「じゃあ、もう一度ちゃんと言うわ。記憶を失う前、あなたのことを嫌ってたかどうかは分からない。けど、今の私は違う。私はあなたを嫌いじゃない。むしろ......大切に思ってる」弥生はそっと彼の手を握り返した。「だから、もうそんな考えをしないで」瑛介はその言葉に苦笑した。「そうか。まさにその通りだな」愛するがゆえに憂う。かつて誰かがそ
瑛介はテーブルの上の皿に目をやった。弥生の食欲はまだ控えめだったが、それでも以前よりずっといい。睡眠もとれているのだろう。顔色にはもう、あの帰国直後の青白さはなく、かすかに血の気が戻っていた。「もういい、無理して食べなくていい。夜にまた何か食べよう」「うん」瑛介は同行していたスタッフに会計を任せ、弥生と共にレストランを出た。エレベーターに乗りながら、ふと視線を横に向けた。「これから向かうけど......」彼は少し間を置いて言葉を続けた。「彼はもしかしたら、あなたに会いたくないかもしれない」弥生の足が止まった。「......会いたくない?」あの人は、かつて彼女を閉じ込めようとしたほど執着していたはずだ。今は会いたくない?まさか、拘束されているの?それとも、もう、自由の身なのだろうか?次々と浮かぶ不安な想像を、瑛介の手が断ち切った。彼は彼女の手首を静かに握り、低く言った。「余計なこと考えるな。たとえ彼が会いたくないとしても、あなたが見に行くことはできる。行けば分かるさ。彼がどういう気持ちなのか」「......うん」到着したのは、想像していたよりずっと寂しい場所だった。都心から遠く離れた山のふもと。霧に包まれたような静けさの中、ぽつんと大きな屋敷が建っている。「まさか、こんな場所に家を建てるなんて......」弥生は小声でつぶやいた。周囲には人影もない。こんな場所で暮らして、寂しくないのだろうかと思った瞬間、瑛介がその心の動きを読んだように説明を添えた。「ここは、あいつの家の所有地だ」「弘次の家?」「そう」環境の異様さに戸惑いながらも、弥生の胸に少しだけ安堵が広がった。少なくとも、拘置所じゃないのね......その時、瑛介が穏やかな声で聞いた。「ここに彼がいるって聞いて、驚いたか?」「......正直、少し。てっきり......」彼女は言いかけて、唇を噛んだ。不用意な言葉で彼を傷つけたくなかった。瑛介は彼女の沈黙の意味を察したように笑みを浮かべた。「僕が通報したと思ったか?」弥生の指先が小さく震えた。「もし本当に通報して、彼がここにいなかったら、あなたは、僕を恨んだか?」その問いのあと、瑛介はすぐに続け







